老年期の意味

山極壽一 (京都大学教授)
2013年06月09日

◎目標なく生きる重要性

還暦を過ぎて感じることがある。老いの時間は子どもの時間と違うということだ。子どもたちと同じように、老年期の人間は何か差し迫った必要性を感じて時間を組み立てはしない。時の流れとともに出合う出来事をそのまま受け止めている。成長にかかる時間は子どもたちにほぼ一様に訪れる。小学生のまま成長が止まることはないし、すぐに大学生になれるわけではない。子どもたちは、同年齢の友だちが同じように成長していく姿を自分と比較しながら、自分の将来の姿を夢見ることができるのだ。

一方、老いは一様にやってくるわけではない。足腰の衰えが先にくる人もいれば、急にボケが始まる人もいる。急速に老けこんでいく人もいれば、年齢の割には若く見える人もいる。病で早く亡くなる人もいれば、長寿を全うする人もいる。自分があとどのくらい生きられるのかはっきりしたことはわからない。子どもたちが将来の目標をもって生きるのに対し、老人たちの視線は不確かな霧の中へ注がれているのだ。

しかも、老いの受け止め方も千差万別だ。物忘れや記憶違いが多くなってあわてる人もいれば、それをいいことにしてひょうひょうと生きる人もいる。周囲から相手にされなくなって孤独に悩む人もいるし、これまでの人間関係を断ち切って新しい仲間を求める人もいる。これまでの仕事にさらに磨きをかける人、全く違うことを始める人というように、老年期の過ごし方は人それぞれに異なっている。それは老いの内容がそれまでの人生の過ごし方によって大きく異なるからだ。老人は個性的な存在である。子どもたちと同じように、老人たちを集団で扱うことはできない。

人類の進化史の中で、老年期の延長は比較的新しい特質だと思う。ゴリラやチンパンジーなど人類に近い類人猿に比べると、人類は多産、長い成長期、長い老年期という特徴をもっている。多産はおそらく古い時代に獲得した形質だ。人類の祖先が安全で食物の豊富な熱帯雨林から出て、肉食動物の多い草原へと足を踏み出した頃、幼児死亡率の増加に対処するために発達させたと考えられる。成長期の延長は脳の増大と関連がある。ゴリラの3倍の脳を完成させるため、人間の子どもたちはまず脳の成長にエネルギーを注ぎ、体の成長を後回しにするよう進化したのである。脳が現代人並みに大きくなるのは約60万年前だから、その頃すでに多産と長い成長期は定着していたに違いない。

しかし、遺跡に明確な高齢者の化石が登場するのは数万年前で、ずっと最近のことだ。これは、体が不自由になっても生きられる環境が整わなかったからだと思う。定住し余剰の食料をもち、何より老人をいたわる社会的感性が発達しなければ、老人が生き残ることはできなかったであろう。家畜や農産物の生産がその環境整備に重要な役割を果たしたことは疑いない。

ではなぜ、人類は老年期を延長させたのか。高齢者の登場は人類の生産力が高まり、人口が急速に増えていく時代だ。人類はそれまで経験しなかった新しい環境に進出し、人口の増加に伴った新しい組織や社会関係を作り始めた。さまざまな軋轢(あつれき)や葛藤が生じ、思いもかけなかった事態が数多く出現しただろう。それを乗り切るために、老人たちの存在が必要になった。人類が言葉を獲得したのもこの時代だ。言葉によって過去の経験が生かされるようになったことが、老人の存在価値を高めたのだろう。

しかし、老人たちは知識や経験を伝えるためだけにいるのではない。青年や壮年とは違う時間を生きる姿が、社会に大きなインパクトを与えることにこそ大きな価値がある。人類の右肩上がりの経済成長は食料生産によって始まったが、その明確な目的意識はときとして人類を追い詰める。目標を立て、それを達成するために時間に沿って計画を組み、個人の時間を犠牲にして集団で歩みをそろえる。危険や困難が伴えば命を落とす者も出てくる。目的が過剰になれば、命も時間も価値が下がる。その行き過ぎをとがめるために、別の時間を生きる老年期の存在が必要だったに違いない。老人たちはただ存在することで、人間を目的的な強い束縛から救ってきたのではないだろうか。その意味が現代にこそ重要になっていると思う。

この記事は,毎日新聞連載「時代の風」2013年06月09日掲載「老年期の意味・山極寿一」を、許可を得て転載したものです。